なくなりかけて分かる大切なもの(思い出のバラの鉢植えの話)
別記事で書きましたが、最近愛用していたモノが壊れることがけっこうあり、
また、気に入っていたのになくなってしまったモノもあったりします。
逆に、自分から手放すことを考えて、そのモノがない生活を試してみたものもあります。
モノとの向き合い方を考えさせられることが多いこのごろです。
今日も意図せず、自分にとってのモノの大切さに気付くことがありました。
そのモノとは、正しく言うと生き物。
実家にあるバラの鉢植えです。(写真の花ではありません)
バラの鉢植えの話
その鉢植えは中学校くらいの時にピアノの発表会の記念でもらったものですが、10年以上たってもまだ真っ赤な花をつけています。
私は花の世話などまめにできる子ではなかったので世話は母任せでしたが、母が「○○ちゃん(私の本名)のバラ」だと言ってくれ、花もたくさんつけてくれていたこともあり、思い入れのある鉢植えです。
子供が全員実家から出て行ったこともあり、ここ1年ほどモノの整理などに取り組んでいる母。
娘(私と妹の二人姉妹)の許可を取った上で、おもちゃや勉強机などをどんどん処分しています。
老後の生活を見据えて、暮らしやすいように家を変えていく母のことを頼もしく思う一方で、子供時代を過ごしてきた家の風景が大きく変わってしまうことには、一抹の寂しさもあります。
そんなわけで、今日は植木鉢の整理をしているとのことで、バラの鉢植えを処分していいかと連絡があったのです。
私は世話をしていたわけではないし、実家に帰ってもほんの一瞬眺めて小声で話しかけてあげる程度の存在。
普段生活をしている中では思い出すこともありません。
しかし、処分していいかと聞かれたときに、涙が出てきてしまったのです。
自分でもびっくりしました。
ラインでの相談だったので、母には私の顔は見えていません。
ですが、相談して気が変わったのか、気持ちを察してくれたのか、母はやっぱり残すと決めたのでした。
私は残してくれることを喜びつつ、もし処分したくなったら、その前に写真撮って送ってとお願いしておきました。
思い出の品は写真を撮ってから処分する、ってことで。
ただそこにあることに感謝する
この一件は、本当に小さな出来事かもしれません。
しかし、モノと人とが、こんなに感情的に結びつくこともあるんだなと実感しました。
そして、こんなにも気持ちの上で大事なものなのに、実際に大切にしてあげているだろうかと考えさせられました。
失いかけたり、失ってみて、その大切さが分かるというのは、人との関係においてはよく言われることだと思います。
しかし、人ではない相手(動植物や、生きていないもの)に対しても、同じようなことがいえると知りました。
そこにいる、あることが当たり前になっているからこそ、感謝の気持ちを忘れないようにしなければならないと思っています。
モノへの感謝とシンプルライフ
今回の例は生き物(植物)でしたが、生き物ではないモノに対しても、一つ一つに感謝の気持ちを持つというのは、なかなか精神を使うことだと思います。
モノが増えても、人間の持っているエネルギー(精神力)は増えてはいません。
むしろ、モノが少なかった時代よりも世の中忙しくなっていると思うので、モノに対して使えるエネルギーは減っているかもしれません。
モノが増えているにもかかわらず、一つ一つのモノに使えるエネルギーが減ってしまっている私たちは、モノを大切にする余裕がなくなっているのではないでしょうか?
ただそこにあることに感謝し、大切に使うことができるだけのモノの量の限界を超えてしまっているから、失うまでその大切さに気付かないのかもしれません。
モノを大切にするだけの余裕がないから、思考停止してしまって、気分で買い物をしては使い捨てることを繰り返してしまうのかもしれません。
感謝して、大切に使えるだけの量のモノを持つこと。
自分にとって大事なものを、心にとめて大切にできること。
それを実践することができれば、自然と最低限のモノだけを残した、シンプルな生活をすることができるのではないでしょうか。
これからの時代はは大量消費、使い捨てではなく、物質的なモノは少なくても、今あるものを大切にして、精神的に豊かな生き方をしていくことが重要視されていくのではないかな、と勝手に思っております。
話が大きな方向にそれてしまった気もしますが・・・笑
今度実家に帰省したときは、バラの鉢植えのことを大切にしようと思います。